山に住む猫
山に住む猫は
自然に育まれて
野性の目をきらっと輝かせても
散歩の来る人たちに見守られて
毎日困ることなくご飯をたべ、ぷっくり太っていても
落ち葉の上を自由闊達に駆け回っていても
どこかけなげだ。
こちらから、彼らを見ると
あちら側の世界から、私たちを眺め返す
白菜がたくさん
ふとしたことから玉置神社へ
きりりと神韻漂緲とした流れの中に散見する野の華々は謎めいた咲き方をし、静かな霊気に包まれてその威容を保っていた
ふとしたことで思い立ち、翌日に、玉置神社へ
長〜い長〜いうねうねする幾つもの山道を越え、玉置山の表面を車はくるくると旋回し飛翔してしまうかの様、山の上部で、とろーっとした深山幽谷の世界を木々の作る仄暗いヴェールを通して眺めると、夏の気配も感じる光の具合の季節の筈なのに。全身をつららで刺されたかのような感覚、久方にしーんと、そして、うっとりともしていた。
平たい土地において見る、田んぼの雑草や花壇や花瓶を飾ろうとする花たちと違い、彼方此方に散見される野の趣に溢れる花々は、あたかも人間によって記号やありきたりの美しさの意味を付与されることを拒んでいるようにも見える、
「これらは花である。」と、私は言い切ることは出来なくて、“これらは花なのかしら?” と、自らの内に問いかけを繰り返すばかり。
騒がしいお喋りのどうしても漏れ聞こえてくる俗世の場にもどってくると改めて、深い静寂に身を漂わせることへの深刻な欲求や必要性を感じる、
商業施設へ行きさえすれば、此方から何も言わずとも「買って欲しい」、と言わんばかりの媚態を示したり、主張をせんとする、平明なプロダクトに手を伸ばすことも出来る、ディズニーやハリウッド、日本のキャラクターの提示する現代の神話やおとぎばなしの世界に耽ることも、アイディアやヒントを発見するためのいい手立てだとも思いますが、それでは物に溢れすぎて、物に使われてしまって萎れてしまいそうになることもある。
時には、権力の場所から隔たって、心のなかの空漠とした感覚を清浄さで満たすということもいいことではないのかしら、と思う、それは力を持つ側から与えられて凝り固まってしまった、物の見方や価値基準に揺さぶりをかけ、個々が本来持つインスピレーションや創造性の泉にアクセスすることを容易くするのだから、
韻律と理性と感情、そして狂乱
不文律の不言律
まじない唱えれば、
律儀さの律は解けて
ゆくのかしら?
この不文律のおばかさん。
噴き出でる泉のように
Beginning being
夜だ。今、噴き出でる泉がすべて、声を高めて語る。そして私の魂も、噴き出でる
ひとつの泉だ。
夜だ。今、愛する者のすべての歌が、はじめて目覚める。そして私の魂も、一人の愛
する者の歌う歌だ。
鎮まらないもの、鎮めることの出来ないものが、私の中にある。それが声を高め
ようとする。愛にこがれる思いが、私の中にある。それは自ら愛の言葉を語る。
私は光だ。ああ、私が夜であるなら! だが、私が光に包まれている
こと、これが私の孤独なのだ。
ニーチェ「夜の歌」より
記憶されたことのない時から、今に至るまで尽きることを知らない泉のように、日々、湧いてくるものを、留まることも澱むこともなく書き連ね、根源にたどり帰る場所。
例え孤独で困難であったとしても、根源の場所の命をを蘇らせる水ををみんなと分かち合いたいという望み、
写真は沖縄の泉(ガー)ふんわりとよもぎやのびるが茂るこの泉の近くに先史時代の遺跡がありジュゴンの骨で蝶を象った美しいシンボリックな遺物、蝶形骨器が見つかっている。きっと先史時代の人たちも豊かさを求めてこの場所にやってきたのね